表現するということ

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表現するということ

事、何かを「表現する」ということについては、昔から苦手である、と思っていた。
ブログを書いている時点で「表現しているじゃん」という突っ込みはさておき、とにかく表現することに抵抗があるのは事実だったりする。

このことは、日本人の特性にも関わってくるように思うが、自分もご多分に漏れず日本人なので他人のことはとやかく言えない。

最近はTwitterやFacebookの発達で、個人名を出しての発言がメジャーになりつつあるが、これは10年ぐらい前までは考えられなかった現象だ。

当時は「インターネットで実名で発言」とか、(有名人を除いては)それだけでも「怖い」事態だったろうし、それこそ自由な発言なんか「怖くてとてもできない」状態だったと思う。
もっとも、その当時は主にホームページが表現の手段だったから、今のようにだれでも気軽に発言できる環境になっていなかったのではあるが。

しかし、今でも匿名性の魅力は十分過ぎるほどあるわけで、だから某掲示板がインターネット黎明期より今だに現役だし、Twitterも実名で登録して活用している人はほんの一握りだろう。

しかし、事このブログに関しては、割合好き勝手に書いていこうと思っている。

別に、文章を書くことが苦手なのではない。
つまり、表現することそのものに苦痛を感じているわけではないのだ。
問題は、表現された後の「自分ではない誰かの反応」にある。

だから、最近気づいたのだ。
表現することが苦手なのではなく、「表現することが怖い」のだと。
批評にさらされるのが耐えられないんだと。

この事は、多くの日本人に当てはまるかもしれない。
しかし匿名であれば、表現することは怖くないのだ。
匿名の掲示板であれば、仮に無責任な発言をしても、責任を取らされることはないからだ。
したがって、某掲示板も実名をさらさないことでかえって歯に衣着せぬ表現がされている場合がある。
(でも完全に匿名性が保たれているわけじゃないから、社会性に背くなどの過激な発言をして捜査に手が入ったりすると、結局特定はされるわけだが)

つくづく、多くの日本人は自分自身を晒して表現するのが怖いんだろう。

このことを自分自身に当てはめてみると、昔はこうではなかった。
子供のころは、好き勝手に「表現」していた。
たぶん、過去にそれで痛い目にあった経験が、いわゆる表現規制をかけるのだろう。
このことについては、後でもっときちんと「表現」してみたい。

何が言いたいかというと、つまり単にリハビリをしているのだ。
「常識的な何か」と「自分の好きなこと」のギャップが、表現することに戸惑いをおぼえることの原因だと思う。 misshehe missxixi missbiu calmmlac calmii calmoo uidfusfd@gmail.com calmvv calmoo calmkk
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